先ず隗より始めよ(先従隗始)の現代語訳・例文! | ハナシマ先生の教えて!漢文。

先ず隗より始めよ(先従隗始)の現代語訳・例文!

このページでは、「先ず隗より始めよ(先従隗始)」の現代語訳と解説を載せています。
なお、教科書などでは一部のみ(「燕人立太子」~「於是士争趨燕」)しか収録されないことが多いですが、省略部分を見ないと中々話の流れが分からないので、以下では全て載せます。

1、先ず隗より始めよ 原文・書き下し・現代語訳

【原文】
 燕姫姓、召公奭之所封也。三十余世至文公。嘗納蘇秦之説、約六国為従。文公卒、易王・噲立。十年、以国譲其相子之、南面行王事。而噲老不聴政、顧為臣。国大乱。斉伐燕取之、醢子之而殺噲。

 燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国、以雪先王之恥、孤之願也。先生視可者。得身事之。」

 隗曰、「古之君有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、「死馬且買之。況生者乎馬。今至矣。」不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」於是昭王為隗改築宮、師事之。於是士争趨燕。

 楽毅自魏往。以為亜卿任国政。已而使毅伐斉。入臨淄。斉王出走。毅乗勝、六月之間、下斉七十余城。惟莒・即墨不下。昭王卒、恵王立。恵王為太子、已不快於毅。田単乃縦反間曰、「毅与新王有隙、不敢帰。以伐斉為名。斉人惟恐他将来、即墨残矣。」恵王果疑毅、乃使騎劫代将、而召毅。毅奔趙。田単遂得破燕、而復斉城。(『十八史略』)

【書き下し】
 燕(えん)は姫姓(きせい)⓪、召公奭(しょうこうせき)①の封ぜられし所なり。三十余世にして文公に至る。嘗て蘇秦(そしん)②の説を納れ六国に約して従(しょう)を為す。文公卒し、易王・噲(いおう・かい)③立つ。十年にして、国を以て其の相の子之(しし)に譲り、南面して王事を行わしむ。而して噲老いて政を聴かず、顧りて臣と為る。国大いに乱る。斉(せい) 燕を伐ちて之を取り、子之を醢(かい)④にし、噲を殺す。

 燕人(えんひと) 太子(たいし) ⑤平(へい)を立てて君と為す。是れを昭王と為す。死を弔い生を問い、辞を卑(ひく)くし幣を厚くして、以て賢者を招く。郭隗(かくかい)⑥に問いて曰く、「斉は孤(こ)⑦の国の乱るるに因りて、襲いて燕を破る。孤極めて燕の小にして以て報ずるに足らざるを知る。誠に賢士を得て与に国を共にし、以て先王の恥を(すす)がんことは、孤の願いなり。先生可なる者を視(しめ)せ。身 之に(つか)うることを得ん。」と。

 隗曰く、「の君に千金を以て涓人(けんじん)⑧をして千里の馬を求めしむる者有り。死馬の骨を五百金に買いて返る。君怒る。涓人曰く、「死馬すら且つ之を買ふ。(いわ)んや生ける者をや。馬今に至らん。」と。期年ならずして、千里の馬至る者三有り。今 王必ず士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや。」と。是(ここ)に於いて昭王 隗の為に改めて宮を築き、之に師事す。是に於いて士争いて燕に趨(おもむ)く。

 楽毅⑨ 魏より往く。以て亜卿(あけい)⑩と為して国政を任ず。已にして毅をして斉を伐たしむ。臨淄⑧に入る。斉王出でて走る。毅 勝ちに乗じ、六月の間に斉の七十余城を下す。惟(た)だ莒・即墨(きょ・そくぼく)⑪のみ下らず。昭王卒し、恵王⑫立つ。恵王 太子為りしとき、已に毅に快(こころよ)からず。田単⑬乃ち反間⑭を縦(はな)ちて曰く、毅 新王と隙有りて、敢えて帰らず。斉を伐つを以て名と為す。斉人惟だ他将の来たりて、即墨の残(ざん)せられんことを恐る。」と。恵王果たして毅を疑い、乃ち騎劫(きごう)⑮をして代わりて将たらしめ、而して毅を召す。毅 趙に奔(はし)る。田単遂に燕を破りて、斉の城を復す。

【注釈】
⓪姫姓…「姫」は周王朝を立てた一族の姓。つまり、燕は周の一族が立てた国。
①召公奭…本名は姫奭(きせき)。かつて召(しょう)という土地を与えられたことから、「召公奭」と呼ばれるようになった。兄の武王に従って周の建国に貢献し、燕の地を与えられ、その後も長い間活躍した。
②蘇秦…遊説家。燕を含む秦以外の国同士で同盟して強国の秦に対抗しようとする「合従策(がっしょうさく)」を唱えた。
③易王・噲…易王は前332年~前321年まで燕の王を務めた人物。噲は易王の子で、在位前320~前312年。
④醢…殺された後、塩漬けにされる刑罰。
⑤太子…いわゆる王子。その時点での王の後に王となる人物。ここでは後の昭王のことを指す。
⑥郭隗…燕に仕えていた人物。この話の中心人物。
⑦孤…私のこと。貴い人物が自分のことをへりくだって述べる表現の1つ。
涓人…君主のそばに仕えて清掃を担当する者。
⑨楽毅…郭隗の献策によって燕に仕官した将軍。非常に優秀。
⑩亜卿…正卿(=大臣)に次ぐ偉い位。
⑪莒・即墨…どちらも斉の都市で、楽毅からの攻撃に耐えている。
⑫恵王…昭王の後に燕の王になった人物。在位前278~前272年。
⑬田単…斉の将軍。火牛の計で有名。
⑭反間…スパイの一種。わざと味方ににせ情報を聞かせて敵に伝えさせ、スパイに仕立て上げる。
⑮騎劫…楽毅の後に斉の攻略を担当した将軍。斉の田単に敗れる。

【現代語訳】
 燕は姫姓(が統治する国家)であり、召公奭が与えられた国である。三十代ほどの後、文公(の代)に至った。以前、蘇秦の説得を受け入れ、六国と盟約を交わし、合従策を実施した。文公が亡くなり、易王や(易王の息子である)噲が即位した。十年経ったあと、(噲は)国を宰相の子之に譲り、国王としてその仕事を行わせた。そして噲は老いたため政務を行わず、逆に(子之の)臣下となった。(そのことで)国は大いに乱れた。(隣国の)斉が(この混乱の乗じて)燕を攻めて占領し、子之を(殺して)塩漬けの刑罰に処し、噲も殺した。

 燕の人々は跡継ぎの平を立てて王とした。これが昭王である。(昭王は)戦死者を(自ら)弔い、生存者を見舞い、言葉を丁寧にし、多くの礼物を用意して、賢者を招聘しようとした。(ある時、昭王は)郭隗に「斉はわが国の混乱につけこみ、(我が国の)燕を攻め破った。私は燕が小国で、報復するための(力が)不足していることよく分かっている。(そこで)ぜひとも賢者を得て共に政治を行い、先代の王(=噲)の恥をすすぐことが、私の願いである。先生、(それに)ふさわしい人物を推薦していただきたい。私自身その人物を師事したい。」と頼んだ。

 (昭王のお願いを聴いた)郭隗は、「昔の王で、側仕えの者に大金を持たせて、一日に千里走る名馬を買いに行かせました。(ところが、側仕えの者は)死んだ馬の骨を五百金で買って帰って来ました。王は怒ると、その側仕えの者は、「(名馬であれば)死んだ馬の骨でさえ(五百金もの大金を出して)買ったのです。まして生きている馬だったらなおさら(高く買うに違いないと世間の人は思うことでしょう)。(この話が広まり)千里の馬はすぐにやって来るでしょう。」と言った。(実際、)一年もたたないうちに、千里の(名)馬が三頭もやって来ました。今、王がどうしても賢者を招きたいとお考えならば、まずこの隗からお始めください。(私が登用されたと聞けば、)私より賢い人は、どうして千里の道を遠いと思いましょうか。(いや、必ず遠いと思わずに来てくれるでしょう。)」と答えた。そこで昭王は、郭隗のために新たに邸宅を築き、郭隗に師事した。その結果、賢者たちは先を争って燕に集まった。

 (郭隗の策によって)楽毅(という人物が)魏から(燕へ)行った。(昭王は楽毅に)大臣に準ずる高い位を与えて国政を任せた。その後、楽毅に斉を攻めさせた。(楽毅は斉の首都である)臨淄まで攻め入った。斉王は(臨淄から)逃げ出した。楽毅は勝ちに乗じ、六月の間に斉の七十余城を攻め落とした。惟だ莒と即墨のみ落城しなかった。(その後)昭王が亡くなり、(その子の)恵王が即位した。恵王がまだ跡継ぎであった時からすでに、楽毅を良く思っていなかった。(斉の将軍である)田単は、そこで逆スパイを放ってこう言わせた。「楽毅は、新しい王と仲違いをしているから、(即墨を攻めるふりをして)わざと(燕へ)帰国しようとしないのです。斉を伐つとは名ばかりです。斉の人たちは、ただ(楽毅ではない)他の将が来て、即墨の残(ざん)が落城することを恐れています。」と。恵王は案の定楽毅を疑い、すぐに騎劫を代わりの将軍に任命し、楽毅を召喚した。楽毅は趙に逃げた。(この策によって)田単はとうとう燕を破ることができ、(燕に占領されていた)斉の城を取り返した。

ざっくり言うと、この話は即位したばかりの王様が、自分の国をめちゃくちゃにした隣国へ復讐するために、優秀な人材をうまく募集して成し遂げる」というものです。

ただし、後ろのほうを見てもらったら分かるように、昭王のあとの王様(=恵王)がやらかしたことによって、復讐は途中で頓挫してしまっています。キレイに話がまとまらない所が、リアルっぽいのかもしれません。

2、先ず隗より始めよ 解説

Q1:この話で言いたいこととはなにか?
→①優れた人材を得たいのなら、待遇を良くすべきということ。
→②大きな目標を達成したい場合、まず手近なところから取りかかるべきということ。

①の意味については、人材をスカウトする役割の大人(会社の社長や人事、クラブの監督、スカウトマン)にとっては、比較的分かりやすい内容だと思います✨しかし、学生さんには分かりづらいですね💦

②の意味については、誰でも分かりやすいと思います。文中で昭王は、「弱体化した自国が強大な斉に復讐する」という大きな計画を立てましたが、そのためにまず行ったことは、既に近くにいた郭隗の待遇を良くすることでした。

このような「小さなことからコツコツと」というのは、勉強やダイエット、恋愛など、おおよその分野で努力する場合、当てはまると思います。
(例)
英語を勉強する場合→簡単な単語から学び始める
ダイエット→1日5分だけ運動してみる
恋愛→できるだけ話しかけてみる

【関連記事】

Q2:この話で面白い所はなにか?
①郭隗による馬のたとえの表現

郭隗の話したたとえ話では、それぞれ以下のようなたとえとなっています。
死馬=それなりに優秀な人物=郭隗
生きた馬=とびきり優秀な人物=楽毅

面白いのが、郭隗は自分で自分のことを「それなりに優秀な人物」だと主張しているところです。
図々しいのか謙虚なのか…笑。結果的にうまくことが運んでいるので、この見立ても当たっていたのでしょう✨

ちなみに、「隗より始めよ」以外にも、漢文には沢山のたとえ話があるので、興味がある方はよかったら以下の記事をご覧になってみて下さい。

②郭隗の先見の明

「私を好待遇してくれたら、私より優れた人物が仕官しに来てくれる」なんて、普通の人なら中々予想できないと思います。郭隗すごい…✨しかもちゃっかり自分も得しているのが面白い笑

Q3:その後の楽毅はどうなった?

郭隗の献策によって来てくれた「楽毅」という人物は、中国史上でも有数の優れた将軍で、あの諸葛孔明も尊敬したとされています。郭隗は大手柄ですね✨

しかし、文中でもあるように、楽毅は昭王の後の王様(=恵王)に嫌われていた+敵国の策略により、趙という国へ出奔することになってしまいます。

奪った城を奪い返された恵王は、楽毅になぜ亡命したのか責める手紙を送りますが、楽毅は昭王に感謝の意を述べた後、「私が帰国して罪人になれば、私を重用してくれた昭王の顔に泥を塗ってしまうから帰国できませんでした」と述べ、燕への忠誠心を訴えます。これで安心した恵王は、燕で改めて役職を与え、楽毅は趙と燕のために活躍しました✨

3、現代における「(先づ)隗より始めよ」の意味と例文

【現代における「隗より始めよ」の意味】

①大きな目標を達成したい場合、まず手近なところから取りかかるべきということ。
②物事は、まず言い出した者からやり始めるべきということ。

現代日本においては、「先づ」が省略されて「隗より始めよ」で用いられることが多いです。
また、用いられる際はだいたい②の意味です。(個人的に②はもとの話からズレていて微妙だと思います…笑💦)

ちなみに、①の意味と似たことわざとして、「千里の道も一歩から」があります。

【「隗より始めよ」の例文】

・東大合格という目標を達成するため、いきなり過去問を解くのでは無く、隗より始めよの精神で、まずは基礎固めを行うべきだ。(①の意味)

隗より始めよを見習い、芥川賞受賞のためにまずは作品を書き上げることを目標にしよう。(①の意味)

・学園祭の出し物を提案したAさんは、隗より始めよということで、自身で計画や予算を考えた。(②の意味)

・会社で新しいルールを決めたB社長は、隗より始めよに倣って自身が率先して新ルールを守った。(②の意味)

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