もくじ
1、韓非子ってどんな人?
韓非子の人生
・韓非子は、前280年頃~前233年頃に生きた人物。孔子より300年ほど後の人物。韓の王族。『史記』によれば、韓非子は吃音(言語障害の一つ)であり、人前で話すことは苦手であったが、文章の才能に優れていた。また一説によれば、李斯(後に始皇帝の宰相となる人物)と共に儒家の荀子に学んだ。
・韓非子は、祖国のために度々進言するが、大して聞き入れられることはなかった。一方、嬴政(後の始皇帝)が韓非子の書いた論文を読むと、「この人と付き合うことができたなら、たとえ死んでも悔いは無い」と深く感動し、韓非子を秦に迎えようとした。韓は一旦断ったが、始皇帝は韓を攻めて無理矢理迎えた。
・その後、嫉妬した李斯が、「韓非子は韓の王族なので、秦のためには働かないでしょう」と進言すると、始皇帝は韓非子を牢屋に入れる。その後、始皇帝は韓非子を許そうと思ったが、既に李斯によって毒殺されていた。
→非常に同情を誘う一生を過ごす。もし韓非子が秦に生まれていたら、あるいは韓の王が韓非子の言葉を聞き入れたのなら、運命は大きく変わっていたのかもしれない。
韓非子の思想・性格
・「人間は愛情や思いやりではなく、己の利益によって行動する存在である」というドライな人間観に基づき、道徳による統治を強く否定し、法による統治を主張した。
・韓非子の性格については、彼の思想を見る限り、冷静で視点が鋭く、人間不信の部分が垣間見える。
2、理想のリーダーは地位と権力をしっかり握った上で厳格なルールの運用を行うべし!
①韓非子が理想とする法(ルール)のあり方
ある時、韓の昭侯がうたた寝していた。典冠者(君主の冠を管理する者)がこれを見て衣を昭侯に着せておいた。昭侯が目を覚ました後、衣が掛けてあるのをみて喜んだが、「誰が衣を掛けたのか」と尋ねると、側に居た臣下は「それは典冠者です」と答えた。すると昭侯は、典衣者(君主の衣類を管理する者)を職務怠慢で罰すると共に、典冠者も越権行為で罰した。(二柄篇)
・ここで重要なのが、「気が利く行いをした典冠者をも越権行為で罰した」という点である。一般的な感覚だと、この行為は賞賛されるべき行動だが、韓非子は罰せられるべきだと考えた。それはなぜか?このような越権行為を認めてしまうと、特定の人物の権力が高まる危険性があり、また法の公平性・一律性が損なわれてしまうからである。
・韓非子は基本的に、できる限り人の感情や個性を排し、システマチックにルールを運用しようとしている。
・韓非子の法思想は、良く捉えれば「基準が明確で分かりやすい」+「公平である」、悪く言えば「融通がきかず柔軟性がない」と言うことができる。
→韓非子的には、日本の議員や政治家は殆ど重罰になる…現政治家のうち、何人が選挙時の公約を果たしているのだろうか?
②厳格な法を運用するために必要なものとは? 術と勢の思想
術とは、役目や仕事に応じて君主が臣下に官職を授け、臣下の発言に従ってその実際の働きを見極め、賞罰の権限を用いて、臣下達の能力を推し量るものである。これは君主が握るべきものである。(定法篇)
・術とは、臣下をコントロールするためのテクニックの一種であり、具体的には臣下の官職や臣下への賞罰を適正に行うことを指す。今でいう所の人事権に近いか。
・当時は、人の働きに応じた評価がされないことが多く、君主のお気に入りならたいした実績が無くとも出世することが多かった。あるいは、君主とは名ばかりで、実質的には人事権を持たず、有力な臣下が代わりに賞罰を仕切るケースもよくあった。(現代社会でもよく起こっていることか?)
世の統治者は、優秀さが中程度の者が続いている。私が勢について語るのは、この中ほどの君主についてである。中とは、上は聖王である堯・舜には及ばず、下は愚王とされる桀・紂ほどではない者のことである。このような中程度の君主でも、法を遵守して権勢の位に居れば、国家を統治することは可能であり、法に背いて権勢の位を去るならば、国家は乱れるのである。(難勢篇)
→勢とは、「権勢(権力を握って勢力を持つこと)」であり、これを手放さなければ、君主が程々の才能だろうが国はうまく治まると述べる。システマチックな理論である。
→韓非子が「術」の思想を説くのは、当時あまりにトップより権力を持つ臣下が出てきて、国が乱れるケースが多かったから。
→またこの思想は、当時から勢力を誇っていた儒家が、統治者のカリスマに頼った政治を理想としていたことに対するアンチテーゼでもある。
3、政治に道徳・愛情を持ち込むべからず! 道徳・愛情の弱点とは?
主張その① 愛情は万能ではない!
愛情深い母親の幼い子に対する関係では、愛にまさるものはない。しかし、幼い子が非行をすれば、これを先生につかせて矯正させ、悪い病気になれば、これを医者にかからせる。先生につかなければ刑罰を受けることになり、医者にかからなければ死んでしまう。愛情深い母親の愛をもってしても、刑罰を回避する上では役に立たない。つまり、子供を生存させ続けるものは、愛情ではないのである。
子と母の関係は愛に基づくが、家臣と主の関係は、権力と策略に基づく。母ですら愛だけで家を存続させていけないのに、君主がどうして愛だけで国を存続できようか。(八説篇)
→「君主が国を治めるためには、儒家が述べるような愛だけではままならないのである」という主張。これは、儒家の述べる「家族への愛を君主への忠義へと広げていく」というロジックを暗に批判している。そして法律への重視に繋がっていく。
主張その② 道徳の実践はとてつもなく難しい!
民はもともと権勢に服しやすい。仁義に懐くものは少ない。例えば仲尼(孔子の字)は天下の聖人であり、身を修め、道を究めて天下を遊説した。天下の人々はみなその仁徳を賛美したが、仲尼に賛同し従った者は七十人のみであった。つまり仁を尊ぶ者は少なく、義を実践するのは難しいのだ。だから天下は広大であるにもかかわらず、従った者は七十人のみであり、真に仁義を実践した者は仲尼ただひとりであった。(五蠹篇)
→「仁義を真に実践することは難し(く、大人数を統治する手段としては不適当だ)から、大多数を統治する方法として、道徳は有効ではない」という主張。
→実際、「いじめを止めさせる」「高齢者に席を譲る」「親を悲しませない」など、現代でも道徳に基づく行為を理解できても実践できない人は多いので、的を射ているか。
主張その③ 人は愛情につけ上がる!
今ここに、出来の悪い子がいる。父母が叱っても改まらず、郷里の人が責めても動かず、先生が教えても変わらない。つまり、父母の愛情、郷里の人の行動、先生の智恵、これら三つの美徳をもってしも、子は動かない。
このように、出来の悪い子の言動は全く改まらないが、地方の役人が官兵を指揮し、朝廷の法令を掲げて悪人を探せば、その子は震え上がり、心を入れかえ、行動を改めるだろう。従って父母の愛情も、子の教育をするには不充分で、地方の役人に厳しい刑罰で臨まねばならないのは、民はもともと愛情にはつけあがり、威力には恐れを抱くからである。 (五蠹篇)
→人はもともと愛情にはつけあがり、威力(ここでは法を指す)には恐れを抱くから、政治において道徳は有効ではない、という主張。
→現代でも「親の金で学校に通わせてもらっているのに真面目に授業を受けない」「恋人に愚痴を聴いてもらっているのに反応が気に入らないとキレる」など、愛情につけ上がっている人は多く存在するので、一定の説得力はあるか。
4、韓非子の名言 一覧(解説付き)
①利之所在、皆為賁諸。
利の在る所、みな賁諸(ほんしょ)となる。(説林下篇)
・鰻(うなぎ)は蛇に似ており、蚕(かいこ)は芋虫に似ている。蛇を見れば誰でも驚き、芋虫を見れば嫌悪感を覚える。しかし漁師は手で鰻を握るし、女性は手で蚕をつまむ。つまり、利益になるとなれば、誰でも孟賁(もうほん)と専諸(せんしょ)のような勇者になるのである。
→人間の利己性を非常に分かりやすく述べた名言。いくら危険であったり気持ち悪くとも、利益を得られると分かれば勇猛果敢にチャレンジするのが人間の性である。
②凡説之難、在知所説之心。可以吾説当之。
凡そ説の難きは、説く所の心を知り、吾が説を以て之に当つべきに在り。(難説篇)
・そもそも、説得の難しさとは、相手を説得するために必要な知識を持つことではない。言葉巧みに自分の意見を明確に伝えることでもない。変幻自在に論じて言いたいことを伝えることでもない。その難しさとは、相手の心情を適確を読みとった上で、自分の意見をそれに寄せて当てはめることにある。
→説得する時のコツは、「正しいかどうか」「論旨の明確さ」「表現力」ではなく、「相手の考え・意見に寄り添えるか」という名言。営業はもちろん、人間関係全般で活用できそうである。
③挟夫相為則責望、自為則事行。
夫の相い為にするを挟まば則ち責望し、自らの為にすれば則ち事行われる。(外儲説左上篇)
・(他者に親切にする際には、)「相手のためにしてやっている」という気持ちを挟むと、(その相手が期待通りの反応をしなかった場合、)責めたり恨んだりしてしまう。(他者への親切を)自分のためだと思えば、物事は滞りなく行われる。
→相手に見返りを求めるとうまくいかないという名言。
→「周りに対して親切にしているのに報われない」と感じたことがある人は、そもそも無意識のうちに感謝や見返りを期待して求めてしまっている可能性がある。しかし、それが相手にとって良いかどうかは分からないし、何事も強要するのは良くないか。
→韓非子が述べる通り、「他者への親切は自分自身のために行っている」と思えば、不満を抱くことも少なくなるか。実際、他者のサポートをすることで自分の経験値が上がることは間違いなく、また相手からの見返りが無くとも、誰かの訳に立ったということだけで幸せを感じることができる。
④志之難、不在勝人、在自勝。
志の難きは人に勝つに在らず、自ら勝つに在り。(喩老篇)
・志を貫くことの難しさは、他人に勝つという所ではなく、自分で自分に勝つ所である。
→目標を達成するため、ライバルに勝つのが難しいのではなく、自分自身の怠惰や傲慢といった部分に打ち勝つことこそが難しいという名言。
→目標を掲げても、スマホの誘惑や怠惰に負けてしまい、中々毎日頑張ることは難しいことは、現代でもよくあることか?
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