もくじ
ポイント
- 李白の人生は、圧倒的な詩の才能に恵まれながらも、政治家として活躍するという目標を果たせず、挫折することが多かった。
- 李白の性格は、「気さくで親しみやすい性格だが、社会には向かない部分がある」「とびきりの才能があって自信家だが、人一倍繊細」。
- 李白の詩の特徴は、「分かりやすく親しみやすい」「題材や作風が幅広い」というものが挙げられる。
こんにちは。ここでは、李白がどのような人生を歩み、どのような性格・詩風であったのかを解説します。後ろでは、作品も紹介しているので、あわせてご覧になってみて下さい!
1、挫折ばかりの人生 李白の人生を3期に分けて解説!
第1期 出生から下積み時代
・西域に生まれ、5歳の頃、一家は蜀(=四川省)に移住。父は富裕な商人であったらしい。幼い頃から様々な書を読み習い、年少にして優れた文才を発揮した。十代半ば頃から、道士(=修行して仙人or不老長生を目指す人)や游侠の徒(=法律ではなく自分の正義感に基づき弱き者を助ける人)と交わり、自由奔放な生活を送ったと言われる。(また、若い頃から仙人に憧れていていたようであり、後に道士となる。)
・早い時期から蜀で就職活動を行うもうまくいかず、25歳で故郷の蜀を離れ、長江流域を巡る。のち、安陸(=湖北省)で結婚し、その後10年間はこの地を拠点として各地を巡り仕官活動を続ける。31歳のころ、遠く離れた故郷を想い、「静夜思」を書く。(著作年については異説有り。)
・襄陽(=湖北省)では、孟浩然と親交を結ぶ。「孟浩然に贈る(贈孟浩然)」で孟浩然に対する憧れをうたう。また別れる際、「黄鶴楼にて孟浩然の広陵へ之くを送る(黄鶴楼送孟浩然之広陵)」を作る。35歳の頃、安陸を離れ、中華を巡る。
【豆知識】唐代の科挙と出身と役人のなり方
・当時、役人になって出世する方法は4つ存在した。1つ目に科挙(=官僚になるための試験)に合格することである。ただし当時、商人・職人・外国人・前科者の子は科挙の受験資格を与えられていなかった。恐らく、李白も商人の出身だった(さらに外国人であった可能性も)ので、そもそも科挙を受けることができなかった可能性がある。
・2つ目に親族からのコネで推薦を受けることある。当時、親族に役人がいれば、そのコネで親族が役人になることができた。(また、科挙の結果も公平性より貴族が優先して合格になることがあった。宋代以降、廃止される。)
・3つ目に、高級役人からのコネで推薦を受けることである。4つ目に、世間の評判から朝廷に招聘されることである。李白は3か4の選択肢があったが、主に3を狙っていたため、あらゆる地域を旅して訪れ、なんとか高級役人とのコネを作ろうとした。
第2期 都長安での役人生活と孤独
・10年以上の就職活動が実り、42歳の時、ようやく宮中に召し出されて翰林供奉という職を与えられた。翰林供奉とは、皇帝の行楽にお供して詩を作ったり、皇帝の求めに応じて詩を作ったりする役職である。実際、宮中にはじめて牡丹の花が植えられて美しく咲き、玄宗皇帝は最愛の楊貴妃と鑑賞していた際、その様子を「清平調」という作品で美しく表現している。
・翰林供奉は、当時から詩才で名を馳せていた李白に合った役職ではあったが、李白自身は不満があり、どうやら実務方面で活躍したかったようである。このころ、「子夜呉歌」という作品を作り、女性の苦しみを表現している。
・また、李白は同僚とうまく付き合うことができず、孤立していた。このことは、「翰林院に読書して懐いを言い、集賢院内の諸学士に呈す(翰林院読書言懐呈集賢院内諸学士)」という作品の中で、「私は生まれながらに勝手気ままだから、周りから誹謗中傷を受けてきた。」と述べている。さらに、「月下独酌」で孤独を楽しむ様子を風流に描く。(なおこの時、朝衡(=阿倍仲麻呂)とは仲良くなっている。)結局立場が悪くなり、2年ほどで都を追われる。
第3期 再起を目指すも…
・その後は再び各地を流浪する歳月を送ることとなり、45歳の頃、洛陽では杜甫と知り合い、2年ほど共に過ごす。自由気ままな李白と生真面目な杜甫は対照的な性格であったが、非常に相性が良かったようで、別れ際に「魯郡の東石門にて杜二甫を送る(魯郡東石門送杜二甫)」を贈っている。また、このタイミングで道士になっている。
・52歳の頃、友人の元丹丘らと呑んだ際、「将進酒」を残し、自信の鬱屈とした気持ちを大酒で豪快に打ち消そうとしている。また53歳の頃、叔父の李雲と会った際に、「宣州の謝朓楼にて校書叔雲を餞別す(宣州謝朓楼餞別校書叔雲)」を作り、自分の不遇を美しく嘆く。(タイトルや解釈含め異説あり。)
・李白が55歳の頃、安禄山の乱が起こると、翌年、永王(李璘)に招かれ部下となる。永王は玄宗に代わって帝位に就いた兄の粛宗と対立したが、敗れて処刑された。李白も捕らわれ死罪の刑が下ったが、名将郭子儀の嘆願により減刑され、夜郎(貴州省)への流罪となり長江を遡るが、途中で恩赦に遇い、東へ引き返した。この時、「早(つと)に白帝城を発す(早発白帝城)」を作る。
【豆知識】恩赦とは?
・罪人の罪を軽くする政策。皇帝の即位・皇太子の選定などめでたいことが起こった際や、・干ばつや地震など、縁起の良くない事柄が発生した際に行われるもの。李白は、干ばつによる恩赦で釈放された。
・日本だと現代でも天皇が変わるタイミングで行われている。また最近、韓国で朴槿恵元大統領が恩赦を受けて釈放された。
・釈放後は、南方を旅し、最後は親族の李陽冰が当塗(安徽省)の県令をしているのを頼って老病の身を寄せ、62歳で没した。没する前、「臨路の歌」という辞世の句を残す。酒に酔い、長江に浮かぶ月影をすくおうとして舟から落ちて溺死したとする伝説が残っている。
・李白の人生は、「詩」「酒」「放浪」「山」「挫折」のワードで示すことができる。特に「挫折」は、現在の名声からすると意外か?
2、クセが強い! 李白の性格とは?
・「自由・気さくで親しみやすい性格だが、社会には向かない部分がある」
→非常に気さくな性格で、孟浩然・阿倍仲麻呂・杜甫など、プライベートにおける友人は多いが、仕事上の人間関係をうまく保つのが苦手だった。宮中で働いている際には、孤立していたことが、「翰林院に読書して懐いを言い、集賢院内の諸学士に呈す(翰林院読書言懐呈集賢院内諸学士)」から分かる。
→同僚から見れば、李白の気さくな態度は、無礼に見えたようである。
・「とびきりの才能があって自信家だが、人一倍繊細」
→小さい頃から詩の才能に優れていたようで、それを李白も自負していた。それは、「臨路の歌」で「自分の死後も自分の作品は語り継がれる」と述べていることから分かる。
→一方、上で説明する通り、政治家として活躍したいという目標を中々叶えられず、「宣州の謝朓楼にて校書叔雲を餞別す(宣州謝朓楼餞別校書叔雲)」などで弱気な気持ちを漏らすことも。
3、なぜ中国で最も親しまれている? 李白の詩の特徴
・分かりやすく親しみやすい
→当時の詩は、難解な語句を多用し、表現も小難しいものが多かった。しかし李白の詩は、学のない人でも分かりやすく親しみやすいものが多く、今でも多くの人に読み親しまれている。
・題材や作風が幅広い
→李白の詩は、「静夜思」「月下独酌」など、月や自分の心情を美しく繊細に表現したかと思えば、「子夜呉歌」「長干行」など、当時軽視されることが多かった女性の苦しみや悲しみを、繊細かつロマンチックに表現することも。
→一方、「将進酒」のように豪快で痛快な作品も記している。
4、自分の不遇を美しく嘆く 宣州の謝朓楼にて校書叔雲を餞別す(宣州謝朓楼餞別校書叔雲)
現代語訳
私を置き捨てて去っていくものは過去の日々であって、私は引きとどめることができない。私の心を乱すものは現在の日であって、悩み事が多い。
万里の遠くから風が吹いてきて、秋の雁を送ってきた。このような秋の到来に対して、高い楼閣にのぼって酒を飲んで忘れるべきである。
漢の時代の文章は盛んであり、特に建安時代の文章は気骨が溢れており、六朝時代には謝朓がおり、素晴らしい詩風であった。李白と叔父の李雲はともに世俗を超越する心を抱き、血気盛んな思いを発している。我々は、大空にのぼり、名月を見たいという思いを抱いている。
刀を抜いて水を断ち切っても、水はさらに流れて止まらない。杯を挙げて酔っ払って愁いを断ち切ろうとしても、愁いは益々深くなる。人生、生まれ落ちて思うようにならないのであれば、明朝には髪をおろして世俗を捨て、気ままな旅に出よう。
本文・書き下し
棄我去者 昨日之日不可留 我を棄て去る者は 昨日の日にして 留むべからず
乱我心者 今日之日多煩憂 我が心を乱す者は 今日の日にして煩憂多し
長風万里送秋雁 対此可以酣高楼 長風 万里 秋雁を送る 此に対し以て高楼に酣なるべし
蓬莱文章建安骨 中間小謝又清発 蓬莱の文章 建安の骨 中間の小謝 又た清発
倶懐逸興壮思飛 欲上青天覧明月 倶に逸興を懐きて壮思飛び 青天に上りて明月を覧んと欲す
抽刀断水水更流 挙杯銷愁愁更愁 刀を抽きて水を断てば水更に流れ 杯を挙げて愁いを銷せば愁い更に愁う
人生在世不称意 明朝散髪弄扁舟 人生 世に在りて意に称はざれば 明朝髪を散じて扁舟を弄せん
ポイント
・人生が苦しい時でも(orだから?)美しい表現で自分の気持ちを表現している所。
5、李白の辞世の作 臨路の歌
(「臨路」は「あの世への旅路」の意味)
現代語訳
大鵬(=李白)は、世界の果てまで飛んでいこうと思ったが、途中で力尽き、羽もくじけてしまった。
しかしその余風はいつまでも激しく吹き、大鵬は太陽が昇る東方の扶桑という木で休むであろう。
後世の人々は私の作品を見て長く伝えるだろうが、今は私が死んでも涙を流してくれる人はいない。
本文・書き下し
大鵬飛兮振八裔 大鵬飛びて八裔に振い
中天摧兮力不濟 中天に摧(くだ)けて 力濟(すく)わず
余風激兮萬世 余風は万世に激するも
游扶桑兮挂左袂 扶桑に游びで 左の袂(たもと)を挂(か)けん
後人得之傳此 後人之れを得え此を伝うるも
仲尼亡兮誰為出涕 仲尼亡びて誰か為に涕(なみ だ)を出さん
Q1:李白は自分が死んだ後も、自分の作品が語り継がれるのは信じて疑いませんでしたが、あなたは「自分が生きた証」をどのような形で残したいですか?
Q2:あなたは、どのような形で死にたいですか?
6、李白の作品を紹介(リンクから飛べます)
上で紹介した作品以外にも、李白の詩は沢山存在します。下のリンクから見られますので、是非!
・静夜思(せいやし)→故郷を想ってうたう。
・黄鶴楼送孟浩然之広陵(黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の広陵(こうりょう)に之(ゆ)くを送る)→尊敬する友人が舟に乗って旅立つのを、寂しそうに見送る作品。
・贈孟浩然(孟浩然に贈る)→孟浩然への強い尊敬の念を伝える作品。
・月下独酌(げっかどくしゃく)→春の夜に独りで酒を飲んで楽しむ。
・魯郡東石門送杜二甫(魯郡の東の石門で杜二甫を見送る)→明るい雰囲気が漂う別れの漢詩。李白と杜甫の友情。
・子夜呉歌 秋→戦争に行った夫を想う妻を描く。
・山中問答→山の中に住む李白が、自身の憧れる理想郷への心情を述べる。
・春夜宴桃李園序(春夜桃李の園に宴するの序)→李白が一族で春の夜に桃の花見をしている様子をうたう。
・将進酒(しょうしんしゅ)→人生はあっという間に終わってしまうから今を楽しむべきことをうたう。
初コメント失礼します。
中学生の僕にでもとても分かりやすくて面白かったです。
昔持っていた教科書の中に静夜思があって、久々に李白に興味を持って調べてみたんです。本文、描き下ろし、現代語訳があって詩も読みやすかったです。他の記事も拝見いたしましたが、マオさんとの会話風な解説も面白くてすらすら読めました(記憶できたかどうかは置いといて)。ありがとうございました。
コメントありがとうございます!
また暖かいお言葉をいただき、大変嬉しいです✨