1、論語の作者は孔子ではない!
『論語』は、孔子や孔子の弟子の言葉をまとめた本ですが、実は孔子自身が作者ではありません!
証拠として、論語の多くの部分では「子曰く(しいわく)」から始まっていることが挙げられます。
これは、訳すと「先生がおっしゃるには」という意味になり、視点が孔子本人ではなく、明らかに弟子だからです。孔子が自分でまとめて「先生がおっしゃるには」と書くのはおかしな話ですよね笑
そもそもですが、孔子の時代は、自身で著作を残すというより、弟子が記録することが割と多かったみたいです。
例えば、『孫子』『孟子』や『墨子』の一部も『論語』と同じく、「子曰く」のように、第三者(弟子)の目線で描かれています。
なお、キリスト教の『聖書』や、初期仏教の『法句経(ほっくぎょう)』といった書物も、キリストやブッダではなく、弟子達が彼らの言葉をまとめたものになります。共通点があって面白いですね✨
2、論語の作者は孔子の孫弟子!
では、『論語』は誰によってまとめられたのでしょうか?一説では、孔子の孫弟子だとされています。根拠として、以下の『論語』の文章が挙げられています。
【現代語訳】
曽子が危篤になった時、(自身の)弟子たちを呼び集めて言った。「(ふとんを開いて)私の足や手を見てみよ。『詩経』に「戦々兢兢として、深淵をのぞくかのように、薄い氷を踏みながら進むように。」とある。
(私は慎重に両親からもらった自分の身体が傷付けないよう大切にしてきたが、もうすぐ亡くなるため、)今からはそのような心配をする必要が無くなった、お前達よ。」と。
【原文・書き下し】
曽子有疾。召門弟子曰、「啓予足、啓予手。詩云、「戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄冰。」而今而後、吾知免夫、小子。」
曽子(そうし)疾(しつ)有り。門弟子を召して曰く、「予(わ)が足を啓(ひら)け、予が手を啓け。詩に云う、「戦々兢々(せんせんきょうきょう)として深淵に臨むがごとく、薄氷を履むが如し。」と。而今(いま)よりして後、吾免まぬがるるを知るかな、小子(しょうし)。
これは、孔子の弟子である曽子が、弟子たちに臨終を看取られる時です。曽子は、孔子より50歳ほど年下だとされています。
つまりこの文章から、『論語』は孔子の孫弟子の時代になって編集されたのだと推測されます。
またここから分かるのが、孔子の弟子たちは、自分の弟子を取って孔子の教えを伝承していたということです。それから2000年以上たっても現代まで残っているのですから、すごいですよね💡
3、論語の他にも孔子の言葉は存在した?
ここからは少しマニアックな話になりますが、実は孔子の言葉は、『論語』に収録されているもの以外にもあったようなのです。
その証拠として、近年になって発見された竹簡資料に、そのような記述が残っていたからです。
例えば、『孔子詩論(こうししろん)』『従政(じゅうせい)』『仲弓(ちゅうきゅう)』『季庚子問於孔子(きかんし こうしにとう)』『君子為礼(くんしいれい)』『弟子問(ていしもん)』『孔子見季桓子(こうし きかんしにまみゆ)』『顔淵問於孔子(がんえん こうしにとう)』といった資料が挙げられます。
『孔子詩論』→馬承源主編『上海博物館蔵戦国楚竹書 一』(上海古籍出版社、2001年)より
『孔子見季桓子』→馬承源主編『上海博物館蔵戦国楚竹書 六』(上海古籍出版社、2007年)より
挙げた文献の中には、『論語』に似ている部分や、『論語』には全く見えない内容が含まれています。
ここから、『論語』に収録されていない孔子の教えがあったことが分かります。
このような竹簡資料について知りたい方は、以下の本でまとめられているので、是非ご覧になってみて下さい!
また、竹簡自体に興味のある方は、こちらの記事をご覧になってみて下さい!