荘子(そうじ)の思想(万物斉同)・名言を紹介! 束縛されず自由に生きたい方へ

1、荘子(そうじ)はどんな人?

・本名は(そう)(しゅう)。『史記』によれば、およそ孟子と同年代の人物だとされている。一時期、漆畑(うるしばた)を管理する職に就いていたようだが、それを除き官職には就かなかった。

・ある時、荘子を尊敬していた()()(おう)が荘子を宰相(政治のトップ)としてスカウトしようとした。しかし荘子は、「宰相のように、祭りで捧げられる牛のように犠牲になるのはお断りだ。私は亀のように、どぶの中でのんびり暮らす方が性にあっている」と答えた。
→荘子にとって、宰相という権力者の地位は「名誉」ではなく「犠牲」であった。このように、世間とは異なった価値観を持っていた。

・荘子の思想は、いわゆる道家(どうか)思想に属す。非常に巧みなたとえ話を用い、自身の思想を述べる。

2、万物ばんぶつせいどうの思想 善悪で分ける価値観を捨て去るべし!

・荘子の思想を一言で表すと「万物斉同」である。「万物斉同」とは、「全ての物事を分けることなく「一」として捉えるべき」という考え方。
→人間はそもそも、「頭が良い人は良い/頭が悪い人は悪い」「二重の人は見た目が良い/一重の人は見た目が悪い」というように、あらゆるものに対して善し悪しを判断している。ただし、この判断は絶対ではなく、信じるに値しないというのが、荘子の考え方。

【本文(現代語訳)】

・人間は湿気を嫌って家屋に住み、どじょうは泥の中に好んで住む。人間は高いところを恐れるが、猿は高い木の上に住むことを好む。この二例から分かるように、人間の善し悪しの判断は、あくまで人間基準での話であり、どじょうや猿には通用しない。従って、人間の考える善悪とは、信じるに値するほど確かでないことが分かる。(斉物論篇)

→人間・どじょう・猿で「良い」とする居住環境は全く異なることから、「世間で信じられている価値観はあてにならない」と主張する。

→これは現代から見ると極端な例だが、人間同士でも善悪の基準が異なる場合があり、また、そのような価値観を周りの人から押しつけられて嫌な思いをすることはよくある。(例:「太ってない?」「なんでもっと勉強しないの?」)そう考えると、荘子の考え方にも一理あるか。

【本文(現代語訳)】

・絶世の美女が庭に現れると、池の魚はその姿を恐れて隠れ、小鳥は驚いて飛び立ってしまう。従って、美人というのは人間に対して通用するものであり、人間以外には通用せず、信じるに値するほど確かでない。(斉物論篇)

→人間同士でも、美人の定義は異なる。自分が良いと思った容姿が必ずしも、他人が良いと思うとは限らない。

→では、具体的にはどのように物事を認識すべきなのか?荘子(や老子)は、「(めい)」という直観(視覚や聴覚など五感に頼らない認知方法)に従って捉えるべきだと主張する。
(例)直観で自分と気の合いそうなパートナーを見つける。

3、荘子の死生観と万物斉同

・荘子の万物斉同の考え方は、死生観にも適用され、生と死を同じように認識した。多くの人間は死を恐れるが、荘子はこれに対して疑問を投げかける。

【本文(現代語訳)】

・むかし()()という美女が、はじめて晋の国に連れてこられたとき、恐ろしさのあまり涙が襟をぬらす程であった。しかし、王宮に連れてこられ、素晴らしい家具や寝具をもらい、豪華な食事をもらうようになってからは、なぜ当初はあれほど悲しんでいたのだろうと後悔した。このように、死後の世界も案外楽しいのではないか? (斉物論篇)

・あるとき荘子が旅をしていると、道ばたに髑髏(どくろ)(頭蓋骨)が転がっていた。荘子はこれを拾って宿屋へ行き、枕代わりにしていると、髑髏が夢の中に現れて、「死の世界には君臣といった面倒な仕組みもなく、寒暑に苦しめられることもない。王者の楽しみも、死の世界の楽しさには及ばないよ」と述べた。しかし荘子はこれを信じる事ができず、「運命の神に頼んで、もう一度お前を生き返らせてやろうと思うが、どうだ」と述べた。髑髏は顔をしかめて、「とんでもない。人間世界の苦労を繰り返すなど、まっぴらごめんだ」と答えた。(至楽篇)

→ここでは、死>生となっているが、これは世間一般の価値観を批判するためにあえて等級を付けているだけで、本来的には荘子は、「生も死も同じように楽しいものだ」と考えた。(自殺を推奨する考えではない。)

→確かに、もしかしたら、死後の世界は生きている世界よりむしろ楽しいかもしれないし、このように考えられたら、いずれ来る「死」に対する気持ちが楽になるか。

4、『荘子』のたとえ話と名言格言を紹介! 朝三暮四 井の中の蛙 顰(ひそ)みに倣う

朝三而暮四。
朝三にして暮れに四にせん。(斉物論篇)

朝三つ、夕方四つにしよう。
 猿使いが(とち)の実を猿たちに与えようとして、「朝三つ、夕方四つにしよう」と言った所、猿たちは怒った。「では朝四つ、夕方三つでどうだ」と言った所、猿たちは喜んだ。

【解説】
・この話から「朝三暮四(ちょうさんぼし)」という成語が生まれ、「目の前の違いにとらわれて、結果が同じであることに気付かないこと」などの意味で用いられる。

・ここで登場する猿は人間の例えであり、この説話の意図は、言葉のささいな違いで怒り喜ぶ人間の愚かさや、その背後にある善し悪しの価値判断がいかに信頼できないかを述べることにある。

(例)後に補講のある休講があっても喜んでしまう。
(例)暴力を振るわれたのに、「これは愛のムチだ」と言われると許してしまう。
→些細な言葉の表現の違いによって、受け手の印象が大きく変わることは良くある。(例:「勉強しろ」or「せっかく良い才能があるから少し頑張ってみたら?」)通常だと、「だからこそ、言葉を慎重に選んで相手を気遣うべき」と考えるかもしれないが、『荘子』は「だからこそ、言葉など当てにならない」と真逆に考える。

②荘周、夢為胡蝶。
荘周夢に胡蝶と為る。(斉物論篇)

荘周は蝶になる夢を見た。
 昔、荘周(荘子のこと)は蝶になる夢を見た。嬉々として蝶になりきり、心の赴くままにひらひらと舞い、自分が荘周であることを忘れていた。はっと夢から覚めると、自身は荘周であった。ここで荘周は一つ疑問に思った。「自分は荘周であり、夢の中で蝶となったのか、あるいは自分は実は蝶であって、今夢の中で荘周になっているのか」と。

【解説】
・一見、荒唐無稽な話であるが、確かに自身が夢の中にいないことを証明するのは難しい。人は、夢は夢、現実は現実として明確に分け、現実こそが真の世界だと認識する。しかし『荘子』は、夢・現実を含めあらゆる物事に対して区別を設けず、万物斉同or渾然一体と認識すべきではないかと主張する。壮大で自由な説話である。
→このような自由な境地に基づく思想は、科学者の心を惹き付けることが多い。例えば、中間子論でノーベル物理学賞を得た湯川秀樹は、若い頃から『荘子』を愛読していた。

井蛙不可以語於海者、拘於虚也。
井鼃せいちは以て海を語るべからざるは、虚に拘めばなり。(秋水篇)

井戸の中の蛙に海の話をしても仕方がないが、それは己の住みかに閉じこもっているからだ。

 全長5000キロメートルを越える黄河(こうが)の水神()(はく)は、秋の台風や大雨で黄河が甚だしく広がるのを見て思い上がった。そして、流れに任せて北海までやってくると、そこには海が広がっていた。黄河など比較にならないほど、限りない大海原を知ってしまったのである。河伯は、北海(じゃく)(北海の神)に、いかに自分が真理(道)を知らなかったか恥じた。

 北海若は、「井戸の中の蛙に海の話をしても仕方がないが、それは己の住みかに閉じこもっているからだ。それと同じく、見識の狭い者に真理を語っても仕方がないのは世俗の教えに囚われているからである。しかし、あなたは今自身の小ささを知ったので、ともに真理を語ることができる」として、どうすれば比較・差別に基づいた価値判断から抜け出し、真理を体得することができるか二人で問答を行った。

【解説】
・この説話がもととなり、「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉が生まれ、「狭い世界に閉じこもって、広い世界があることを知らないこと」という意味で用いられる。

・『荘子』が述べるように「真理」を体得する必要はないが、広い視野でもって自身の実力や考え方を位置づけることは重要か。

彼知矉美、而不知矉之所以美。
彼は矉を美とするを知るも、矉の美なる所以を知らず。(天運篇)
醜女は(西施が)眉をしかめた様子が美しいと理解したが、それがなぜ美しいのかという理由が分からなかった。

 昔美人で有名な西施(せいし)は胸を病み、いつも眉をしかめていた。すると、同じ村に住む醜女(しこめ)がこれを見てうらやみ、さっそく胸に手をあてて村じゅうを歩き回った。これを見た村人は、(あまりに醜く)恐れのあまり逃げ出してしまった。醜女は西施が眉をしかめた様子が美しいと理解したが、それがなぜ美しいのかという理由が分からなかった。

【解説】
・「むやみやたらに他者のまねをしても効果的とは限らない」という話。西施が眉をしかめた姿が美しかったのは、「素が美しい」という前提条件によって成り立っているので、この前提条件がない人がまねしても効果がない。
→この現象は現代でもよく起こっている。
(例)元々勉強ができる人間の勉強法をまねしても、大して成績が上がらない。
(例)元々美しい人が宣伝している化粧品を使っても、大してキレイにならない。

・現在では、(ひそ)みに(なら)う(善し悪しも考えずに、むやみに人のまねをする)」として定着している。

5、まとめ 荘子を現代にどう活かす?

・荘子の万物斉同は、「実践」という点から考えると、非常に難しい考え方である。人間が他者との比較をしないようにすることや、死を楽しみに思うことは困難である。しかし、我々が悩みを抱えてしまった際、非常に有効な考え方とみなすことができる。

・我々の悩みは、比較や視野の狭さから生まれることが多い。例えば、「他者と比べて醜い、頭が悪いetc…」や「美人である=善」「頭が悪い=悪」のような思い込みが挙げられる。このような悩みを持っているときに、『荘子』の思想に触れると気が和らぐかもしれない。

「今の自分も良いけど、頑張って変わっていく自分も良い」、このように今の自分と未来の自分のどちらも「万物斉同」として認めてあげることができれば、とても生きやすくなるのでは?

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