故事成語「多岐亡羊(たきぼうよう)」から現代日本との関わりを考える 「選べる」ということは大変?  | ハナシマ先生の教えて!漢文。

故事成語「多岐亡羊(たきぼうよう)」から現代日本との関わりを考える 「選べる」ということは大変? 

ポイント

  • 「多岐亡羊(たきぼうよう)」とは、①「人間は選択肢が多くなるからこそ、本当に大切なものを得るための道筋を見失ってしまうことのたとえ」②「人間は細かい部分を気にしすぎて、本来の目的を見失ってしまうことがある」という意味。「多くの岐にして羊を亡(うしな)う」
  • 逃げたした羊を追っていた時、分かれ道が多すぎて羊を見つけ出せなかったエピソードが由来。
  • ①は、飲食・買い物から職業選択・結婚まで、人生全般で当てはまる。
  • 現代に生きる我々は、昔と比べ生き方を自由に選べるようになったが、その分、賢明な選択をするため、視野を広げ、学びを常に続けることが大切。
  • ②は、目標に向かって頑張る中で、視野が狭くなり、目的を忘れて到達できないということ。(「学校の勉強で板書をきれいに写すことにこだわるが、結局テストで点数は取れない」「自分にとってベストな塾を吟味はするが、結局受験には失敗する」「特定の教科のみ細かく受験対策するが、別の教科がおろそかで、結局受験には失敗する」など)

1、「多岐亡羊(たきぼうよう)」とは?

皆さんこんにちは。本日は故事成語の「多岐亡羊(たきぼうよう)」について紹介します💡

こんにちは。「多岐亡羊」ってどんな意味ですか?

「多くの岐(=分かれ道)にして羊を亡(うしな)う」と読み、「選択肢が多くてどれを選んだら良いかが分からなくなること」という意味で用います。

選択肢が多くて逆に困るパターンですね💡
ご飯屋さん行って、美味しそうなメニューが多くて、選ぶのに迷って困っちゃうみたいな状態ですか?

その具体例良いですね✨
「選択肢が多い」とは、一般的には「良い」とされていますが、選択肢が多いからこそ、困ってしまうこともあるという、なんだか不思議な感覚になる言葉です💡

確かに…ご飯屋でも、「色んなメニューがあるお店のほうが良い」って思いがちですけど、いくつも頼むわけにはいかないから、結局1つに絞るのが大変だったりします💦なら別にメニューが豊富でなくても良いのでは?って考えにも発展しますね💡

実際、あのアップルの創始者である故スティーブジョブズは、同じ服を何着も持っていて、それを着ることで、服を選ぶコストを削減したことは有名ですね。
心理学用語で言う所の「決断疲れ(Decision fatigue)」というものを回避するためだと言われています。

「決断疲れ」って、言われてみると確かに数ある選択の中から選ぶのって、楽しい場合もあるけど、しんどくもあるのかもしれません💦

ご飯屋や服だけでなく、我々は毎日多くの選択に迫られているので、その選択の機会をできる限り減らすのは、合理的な生き方としては一理あるのかもしれません💡

さわりはこれくらいにして、以下では本格的に「多岐亡羊」について学び、皆さんの生き方を顧みる機会になれば幸いです✨

2、「多岐亡羊」のエピソードを知ろう

以下の文章が、「多岐亡羊」のエピソードとなります。まずは現代語訳をご覧になってみて下さい。

注目

「多岐亡羊」の話(『列子』説符篇より) 

【現代語訳】

楊子の隣人が(飼っていた)羊を逃がしてしまい、皆を引き連れ、また楊子の召使いを借りてまでこれを追っていた。楊子が言うには、「ああ。たった一匹の羊を失っただけなのに、どうしてここまでそこまで多く(の人が追うのか)。」と。

 

隣人が言うには、「分かれ道が多いからです。」と。(一同が)帰ってきて(楊子が)「羊は捕まえられたか。」と問いただした所、「羊を逃がしてしまった。」と答えた。

(楊子が)言うには、「そうして羊を逃がしてしまったのか。」と。(隣人が)言うには、「分かれ道の中にまた分かれ道があり、私はどこに行けばよいか分からなかったから、帰ってきたのです。」と。

楊子は辛そうな表情に変わり、何も言わなくなり、日をまたいでも笑うことがなかった。弟子はこの(楊子の様子を)を不思議がり、質問した。「羊はたいして価値がない家畜です。また、(逃げた羊は)先生が所有されているものではないのに、言ったり笑ったりできなくなる(ほど落ち込んでいるのは)どうしてでしょう。」と。揚子は答えなかった。

弟子は(楊子の)態度が良く分からなかった。(別の)弟子の孟孫陽(もうそんよう)が出てきて、(別の弟子の)心都子(しんとし)に告げた。心都子は後日、孟孫陽と一緒に(楊子の部屋に)入って質問した。「昔、兄弟が三人いて、斉・魯のあたりに遊学し、同じ先生から学び、仁義の道を修得して帰りました。

三人の父が言うには、「(お前達が修得した)仁義の道はどのようなものだ。」と。長男が言うには、「仁義とは、我が身を大切にして名を後世に残すことです。」と。次男が言うには、「仁義とは、自分の身を犠牲にして名を成すことです。」と。

三男が言うには、「仁義とは、自分の身体と名声をどちらも全うすることです。」と。兄弟の方法は互いに異なっているが、元々はどれも同じ儒学から出ています。どの方法が正しくてどの方法が間違っているのでしょうか。」と。

楊子が言うには、「川辺にいる者がおり、水に慣れており、勇気をもって泳ぎ、船頭業で稼ぎ、その儲けを一族に施していた。(これを羨ましいと思い、)食料を持って(この船頭に)弟子入りして学ぶ者は大勢いたが、その半分は溺死した。(彼らは)泳ぎを学びに行ったのであり、溺れることを学びに行ったわけではないが、このような結果となった。お前達は、(船頭の教え方と弟子の学び方で)どちらが正しく、どちらが間違っていると思うか。」と。心都子は、無言で出て行った。

孟孫陽は(納得いかず)心都子を責めて言った。「どうして君の質問の仕方は回りくどく、先生の答え方はひねくれているのか。私の戸惑いがますます強まってしまった。」と。

心都子が言うには、「大きな道には多くの分かれ道があるからこそ羊を失い、学者は多くの学び方があるからこそ(本来の理想の)生き方を失ってしまうということだろう。(そもそも)学問とは根本が同じであり、根本は1つである。しかし、末節が違っていることはこのようである。ただ同じ根本に帰れば、(それぞれの方法自体には)良いも悪いもない。君は先生の門下に学び、先生の考えを習ったが、先生のたとえ話を理解できなかったのだね。悲しいことだ。」と。

【原文】

楊子之鄰人亡羊、既率其党、又請楊子之豎追之。楊子曰、「嘻。亡一羊何追者之衆。」

 

鄰人曰、「多岐路。」。既反問、「獲羊乎。」曰、「亡之矣。」

曰、「奚亡之。」曰、「岐路之中又有岐焉。吾不知所之、所以反也。」

楊子戚然変容、不言者移時、不笑者竟日。門人怪之、請曰、「羊賎畜、又非夫子之有、而損言笑者何哉。」揚子不答。

門人不獲所命。弟子孟孫陽出、以告心都子。心都子他日与孟孫陽偕入而問曰、「昔有昆弟三人、游斉・魯之間、同師而学、進仁義之道而帰。

其父曰、「仁義之道若何。」伯曰、「仁義使我愛身而後名。」仲曰、「仁義使我殺身以成名。」

叔曰、「仁義使我身名並全。」彼三術相反、而同出於儒。孰是孰非邪。」

楊子曰、「人有濱河而居者、習於水、勇於泅、操舟鬻渡、利供百口、裹糧就学者成徒、而溺死者幾半。本学泅不学溺、而利害如此。若以為孰是孰非。」心都子嘿然而出。

孟孫陽讓之曰、「何吾子問之迂、夫子荅之僻。吾惑愈甚。」

心都子曰、「大道以多岐亡羊、学者以多方喪生。学非本不同、非本不一、而末異若是。唯帰同反一、為亡得喪。子長先生之門、習先生之道、而不達先生之況也、哀哉。」

【書き下し】

楊子の鄰人 羊を亡(うしな)い、既にして其の党を率い、又た楊子の豎を請いて之を追う。楊子曰く、「嘻(ああ)。一羊を亡うは何ぞ追う者の衆(おお)きや。」と。

 

鄰人曰く、「岐路多ければなり。」と。既にして反りて問えば、「羊を獲たるや。」と。曰く、「之を亡う。」と。

曰く、「奚ぞ之を失える。」と。曰く、「岐路の中に又た岐有り。吾之く所を知らず、反える所以なり。」と。

楊子 戚然として容を変え、言わざる者 時を移し、笑わざる者 日を竟(わた)れり。門人 之を怪しみ、請いて曰く、「羊は賎畜なり、又た夫子の有するに非ずして、而して言笑を損する者が何ぞや。」と。揚子答えず。

門人命ずる所を獲ず。弟子の孟孫陽出でて、以て心都子に告ぐ。心都子 他日 孟孫陽と偕(とも)に入りて問いて曰く、「昔 昆弟三人有り、斉・魯之間に游び、師を同じくして学び、仁義の道を進(つく)して帰る。

其の父曰く、「仁義の道若 何(いかん)。」伯曰く、「仁義 我をして身を愛して名を後にせしむ。」と。仲曰く、「仁義 我をして身を殺して以て名を成させしむ。」と。

叔曰く、「仁義 我をして身名並びに全からしむ。」と。彼の三術相反し、而して同じく儒に出づ。孰れか是にして孰れか非なるか。」と。

楊子曰く、「人 河に濱して居る者有り、水に習い、泅(およ)ぐに勇なり、舟を操(あやつ)りて渡るを鬻ぎ、利 百口を供す。糧を裹(つつ)み就きて学ぶ者は徒を成し、而して溺死する者幾(ほとん)ど半なり。本と泅(およぎ)を学び溺を学ばすして、而して利害此くのごとし。若(なんじ)以て孰れか是にして孰れか非と為すや。」と。心都子嘿然として出づ。

孟孫陽 之を讓(せ)めて曰く、「何ぞ吾子の問うこと之迂にして、夫子の答うること之僻なり。吾が惑い愈(いよいよ)甚し。」と。

心都子曰く、「大道は多岐を以て羊を亡い、学者は多方を以て生を喪(うしな)う。学は本同じからざるに非ず、本は一ならざるに非ず、而るに末の異なること是のごとし。唯だ同に帰り一に反り、得喪亡しと為す。子 先生の門に長じ、先生の道を習い、而るに先生の況(たとえ)に達せざるなり、哀(かな)しきかな。」と。

【注釈】

楊子…人名。思想家の1人。 孟孫陽・心都子…共に楊子の弟子。

面白い話だけど、結構哲学的な話で分かりづらいなぁ…
つまりどういうことが言いたいんですか?

この話で注目して欲しいことは2つあります。
1つ目は、先に話したように「人間は選択肢が多くなるからこそ、迷い困ってしまうことがある」ということ。
2つ目は、「人間は細かい部分を気にしすぎて、本来の目的を見失ってしまうことがある」ということです。

1つ目は分かるんですが、2つ目ってどんな意味なんですか?

ざっくりと言えば、「本末転倒」と似た意味です。
話にもあった勉強方法をたとえにすると、以下のような状況が当てはまります。
・「学校の勉強で板書をきれいに写すことにこだわるが、結局テストで点数は取れない」
・「自分にとってベストな塾を吟味はするが、結局受験には失敗する」
・「特定の教科のみ細かく受験対策するが、別の教科がおろそかで、結局受験には失敗する」

なんとなく分かりました!
確かに、勉強の目的は「テストで点数を取る」や「受験に受かること」でスタートするのに、いつの間にか細かいことばかり気になって、最終的な目的を忘れてしまうことってありそうです💦

頑張ることは良いことですが、視野が狭くもなりますからね。そもそもなんで頑張っていたのかすら忘れ、目標まで到達できないことは良くあります。
この「多岐亡羊」は、そのようなミスをしないための教訓話としても有用だと思います💡

頑張っている時には、たまに本来の目的を思い出して、本当にその方法で達成できるのか考える必要がありますね💡

3、職業の選択肢が多いことは本当に幸せなのか?

「多岐亡羊」の1つ目の意味である「人間は選択肢が多くなるからこそ、迷い困ってしまうことがある」は、様々な場面で具体例を示すことができます。

例えば職業です。現代日本では、一般的に優秀であればあるほど選べる職業の幅が広がります。優秀な人は、医者や弁護士、政治家、大企業の総合職など、なるのが難しい職業も選択肢に入れることができます。
一方、勉強ができない人・学歴がない人は、憲法的には「職業選択の自由」がありますが、実質的に上で挙げたような職業に就くことは非常に難しいです。なぜなら、どの職業にも学力・学歴が必要になってくる場面がでてくるからです。

勉強ができる人が職業を選べるというのは、なんとなく分かります💡

では、職業をなんでも選べるだけの優秀な人間は、本当に幸せなのでしょうか?

普通に考えたら羨ましいですけどね?💦

必ずしもそうではないと思います。実際、私は非常に優秀な学生から、「将来、どの企業or職業にすればよいか分からない」という相談を受けたことがあります。

贅沢な悩みすぎてぴんときませんね!💢

確かに贅沢な悩みという見方もできますが、当人にとっては深刻な話だと思いますよ💡

なるほど…じゃあこのような場合はどうすれば良いのですか?

自分にとっての「本質(=たどり着きたい地点)」を考えてみて、そこから逆算するのはどうでしょう?
例えば、「幸せになるためによりよい職業を選びたい」のなら、「幸せ」がゴールになり、「自分にとっての幸せとは何なのか」を厳密に考える必要があります。
それは、「人より稼ぐこと」「自分のやりたい仕事内容で稼げること」「自分のできる仕事内容で稼ぐこと」「多くの人に感謝されること」など、人それぞれです。

人によって幸せを感じる事柄は違う場合もありますからね💡
自分がどんな時に幸せになるのか、よくよく考えてみるとよいですね。

まぁそもそも、人間の行動原理の多くは「幸せになるため」なので、自分がなにをすれば幸せになれるのかは、考えすぎなくらい考えてもよいと思います💡

4、「自由恋愛+結婚」「お見合い結婚」はどちらが幸せになれる?

選択肢が多いことのデメリットは、職業選択だけでなく、恋愛・結婚にも当てはめることができると思います💡

どういう風に当てはまるんですか?

ナナさんは、昔の日本でよくあった「お見合い結婚」と、現代で主流な「自由恋愛+結婚」では、どちらが幸せになりやすいと思いますか?

お見合い結婚って、自分でほとんど選ぶことができないってことですよね?💦そりゃあ、自由に恋愛して、自分で吟味して結婚したほうが幸せになるのでは?💡

必ずしもそうではないようです。恋愛結婚だと、相手の良い所より悪い所を見がちになり、「他に良い人がいるのでは?」という考えに至り、「一生この人と一緒に過ごす」という覚悟も揺らぎやすいそうです。
お見合い結婚だと、そもそも結婚相手の選択肢がないですし、相手のことも知らないので、自然と良い所に目がいきやすいそうです。

「他に良い人がいるのでは?」は分かりやすいかもなぁ…💦
選択肢が多くて視野が広いからこそ、目の前の相手としっかり向き合えないこともありそうです💦

あとは、自分が選べる立場だと調子に乗って、痛い勘違いしている人も多いですね💦

もちろん、自由恋愛からの結婚で、幸せな家庭を築いている所は沢山あります。一方で、パートナーの嫌なところばかりに目を向けるだけor別の人ばかりに目を向けている人も多いです

最近は、離婚率も高いですからね。離婚が絶対悪いわけではないけど、しっかりお互いが向き合わずに離婚していった所は多いのでしょうね💦
人生って難しい…

簡単にうまくいかないからこそ、楽しくもありますよ💡

これまで、職業・結婚を具体例として、多岐亡羊の選択肢が多いことのデメリットを解説してきました。
そもそも現代は、「多様化を尊重する」傾向にあるため、人生全般で選択肢が多くなっています。

・企業で働くか独立するか 
・結婚するかしないか 
・子どもを作るか作らないか
・持ち家に住むか賃貸に住むか
・地方で暮らすか都会で暮らすか
 
生き方が多様化したからこそ、選ぶのが難しくなってきている側面はあります。

現代人の我々は、沢山選択して生きないといけない訳ですね💡
元々、「大人になったら結婚して子どもを産むべし!」みたいな固定した価値観が嫌だから、様々な選択肢が生まれたはずなのに、選択肢が増えたら増えたで、吟味する大変さが出てきてしまったってことですね。
これって…進歩してるんですかね?

一応、進歩していると捉えたいですね笑
しかし、昔より選択肢が増えた分、賢明な選択をするため、本質を見失わないため、沢山学ぶ必要はあるのだと思います

沢山の中から生き方を選ぶのは大変だけど、生きてるって感じがして、それはそれで楽しいのかもしれませんね💡
私もこれからの生き方について、可能性を調べて考えてみたいと思います。
ありがとうございました!

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